昭和49年11月08日 朝の御理解
御理解 第21節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても。氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
信心せよ信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。信心は自分の心がいよいよ神様へ向かって進んでいくと言う事なんです。そこで自分の心というものが、神様へ向こうて近づいていくと言う事。こういう説き方はこれは、金光教どくとくなものだと思うですね。神は神人間は人間と神と人とが一体になって行くという、そこに信心いわば共に栄えていくというおかげになってくるわけですけれども、確かに御道の信心は、総生神を目指すことです。
ですから心がいつも神様へ向かって、何時も進展して行っておらなければいけないと言う事なのです。昨日はマルショウの、父兄の方の例会でした。いつも父兄会には、父兄会の方達だけの話し合いでしたけれども、折角こうしてみんなが集まるのだから、親先生の話を暫くでも頂きたいという願いがございまして、昨日は私も会合の話し合いが済んだ後、暫くお話をさせて頂きました。そこへちょうど日田から竹野さんたちが、二人連れでお参りをしておる。
また同じ時間位に宮野教会の林さん達が、新しい方をお導きしてお参りをして見えておった。それで一緒にお話を聞いて頂いたんですけれども。例えば今日の二十一節から、信心というものが、絶えず進んでおらなければいけない。絶えず神様へ向かって進んでいかなければならないと言う事ですから。大雑把に言うて金光様のご信心は、日々の改まりが第一だと言う事です。また信心とは本心の玉を研くものぞやと言われる。是です大きく大雑把に申しましたら。自分の心が日々研かれていく清まっていく。
信心とは日々の改まりが、愈々大事だと改まっていく研いていく。そこにです研かれただけ改まって行っただけ。神様に近づいていくと言う事になるのが、御道の信心なんです。改まっただけ研いただけ、神様へ近付いていくと言う。勿論神様と言うても生神生神とは、ここに神が生まれる事であってと言われる、わが心の中に神を感じるわが心の中に、自分で合掌出来れる心の状態というものが育って行くと言う事なんです。
先日四日が神愛会でございました。ここの先生方が全部集まります。また関係教会で今合楽に帰依しておられる先生方も、みんな見えられます。中に宮野の教会の安武先生、若先生のほうが見えておりました。実は今日も親先生に、合楽教会の今日は神愛会ですから、やらせて下さいと言うてお願いされたら、あちらは甘木の出社ですから、甘木の信心を頂いてから、合楽には行けとこう言われた。
甘木の信心を一通り身に付けて、そして合楽に行けとこう言われたと言う。いわば許しは出らなかったわけです。それでも自分としてはです、甘木の信心初代のああいう大徳を受けられた先生の信心が残っておる。その信心をですいわば本当に頂く事のために、合楽にもまた信心の稽古に行くのだから。言わば押して出てきて、そしてその日はとうとう、他の先生方も二、三人泊まって、明くる朝の御祈念を頂いて帰られました。
甘木の信心甘木の信心と言うが、甘木の信心とは安武先生、どう言う様な事を言われるんですかと、私が申しましたら。もう言下に言われました。もう決ってるんですね。甘木の信心とは親教会を大切にする事、親先生を尊ぶ事。是が甘木の信心だとこう言うのです。そこで私はこの頃丁度、二十六日か七日のあちらの記念祭の朝、私がお夢を頂いて安武先生が、ここにお夢の中にお見えられた。そして私と安武先生の問答の一部を、聞いていただいたんです。決してそれはねあの間違いではありません。
けれども本当の事じゃないです。これは甘木だけではありません。今の全教の上にですこれは、言うても良い事でしょう。金光様のご信心の一番大事なとこはどこかと。親教会を尊ぶ大事にする事。親先生を大切にいわゆる、師匠を大事にする事だと。成程甘木の初代も親教会である小倉の教会を大事にされたし、また桂先生親先生を神様のようにお扱いになられた。けれども安武先生の場合は、そうしなければおられない何物かが心にあったんだ、動いておったんだと言う事です。
是は私の場合でも同じ事です。信心が段々分かってくる。いうならば今日の御理解で言うと、わが心が神に愈々、向こうて行けば行くほどにです。私が善導寺あっていわゆる、三井教会あって合楽だと言うておるのと同じです。そしてどれだけ私がです。親教会に尽くした、出来たと言うてもです。それはいうならば元金を、借りられようとするならばです。どれだけ御用が出来たからと言うて、それは利払いにも当たらない位だと私は思っておるです。しかもこれは子々孫々合楽のある限りです。
合楽は矢張り三井教会あっての合楽だという思い方なんです。けれどもそういう思い方が、段々強うなってくると言う事は、わが心が神に向かえば向かう程、その思いは強うなるんだと。師匠を大事にしなければならない。親先生を大事にしなければならんと言う事もです。おかげを頂かなきゃならん。徳を受けなければならんから、親教会を大事にするとか、親先生を大事にすると言った様なものとはさらさらないです私の場合。
親教会に尽くしたからと言うて、それで徳を受けんならんなんて、さらさら夢思ってないです。それは嘘だと私は思うです。お徳を受けると言う事は、結局自分の心が神に向こうていく、そういう精進をする以外にはないのだ。所が最近ではですわが心が神に向こうて行くと言う事は、どういう様な事かと言う事すらが、おぼろげになっておると言う事だ。本心の玉を研いていく清めていく。
今朝私は小さいお玄関のところに、庭いっぱいに下駄が脱いでありますけども、引っくり返っとるともありゃ、横むいとるともある。いわゆる脱ぎ散らかしてある場面を、御神願に頂いたんですけれども。私は信心を進めていくという、わが心が神に向こうていくと言う所の基本になるところはです。結局自分の足元の乱れを先ず、気づかせて頂く事だと思うです。自分自信の言うなら心の乱れです、足元。
手元足元の所を見らせて頂いて、信心させて頂いておって、教えを日々頂いておって、こういう心掛けでは、おかげにならないという、自分の足元の乱れを先ず気づかせて頂くこと。そこからこれではいけんという、改まりが生まれてくる。清めると言う事は、どう言う事を持って清めるのか、研いていくのかと。私はこれは合楽で言われておる所の、成り行きを尊ぶとか、成り行きを大切にすると。
そうしていくうちに、それが神様の御働きである事が分かってくると、御の字を付けなければおられないように、その事を御事柄として受けていくと言う様な生き方は、是は研いていくと言う事の一番、いわば研きやすい生き方だと言う事を、今日また改めて感じさせていただくのです。研くと言う事は色々ありましょう。自分の本心の玉をそれによって改まり、それによって研くとこう言われています。
それという事は今あなたが問題を持っておるなら、その問題を踏んまえておる。難儀を持っておる。その事によって研くその事を持ってという一つの、それを研いていけと。そこに、難儀を感ずるならばです。難儀を感じなければならない元を悟らせて頂いて、自分自身が改まっていく以外はないじゃないか。これは私は例えば天地の御恩徳が分かれば分かるほどいうならば、甘木の初代じゃないですけれども。
御物としての頂き方をなさったようにです。信心が分かれば分かるほど一切の事が、神様の御働きであろと言う事が分かってくるのですから。その事柄を御の字を付けて頂くという事なんですけれども、さあそれが難しい。難しいからこそ改まりも出来る。難しいからこそ研きも出来るわけです。いろんな問題が起きてくる。だからそれを御の字を付けて頂けたら、それでよいのですけれども。
中々それが嫌な事だとか、困った事だと言う事になるのです。その困った事だ嫌な事だと言う事をです。自分の心の豊かさがないからだ。限りなく美しゅうなれと言われるのに心が汚いからだ。言うなら我情我欲がいっぱいなんだから、これが嫌に見えたり難儀に見えたりするのであるから、その我情我欲を取っていく。限りなく美しゅうなる事に努めさせて頂いたら、この問題も有難く合掌して受けられる事が、段々分かってくるから。これは研く事の一番いうならば、手近な研き方だと言う事を思います。
昨日の会合でお話をしておる時に、これは日田教会の御信者さんですね。竹野さん一人は、ここでおかげを受けた方なんです。大変、病的な不眠症の方ですが。私の話を下で丁度、たまたま聞く機会を得られて、その晩から熟睡が出来るようにおかげを頂いたという。奇跡的なおかげを受けた方。それはご近所らしいですから、それで二人で見えておった。最近はえらいこの頃騒々しかですねち言うたら、それが親先生私は本当に日田教会のことを思うて、おかげの泉を示現活動に参りまして。
あちらの奥様におかげの泉を差し上げる事にしとりります毎月。それを待ち遠しいようにして、まあだおかげの泉は出らんですかちいうて言われるくらいに喜んで頂くから、喜んで頂くもんと思うて、実は聞く所がそれが実はそうではなかった。色々と会合のたんべんに、私がまるきり合楽に代わってしまったように言われて、もう合楽合楽と行く事もこげん教会内に、波紋を作るならばこらもう、今までのように行かれんと言った様な状態になりましたと言う事を言ってます。
合楽ではいうならば、わが心が神に向こうていくという事を教える。それを例えば他所の教会ではと言うと、語弊がありましょうけれども、とにかく親教会を大事にする余りに、他所の教会なんかに行ったら罰かぶる道を間違えておる、おかげを落とすと教えておる。ですからそれを嘘ではないけれどもです。わが心が神に向かうような生き方に、信心にならせてさえ頂けば、親は忘れられるものじゃない。
大事にしなければおられんのであり、自分のご縁を頂いておる親教会もまた、親教会あって自分だと言う事になるのですけれども。合楽ではその根本の所を、私は説きまたは聞いて頂いておるように思うのです。しかも私がです。私の考えではなくて神様からお知らせを頂いて、そしてそれを皆さんに聞いて頂いておる。本当の言わば宗教である。宗教とはウ冠に示すと書いてある。それは、宗教とはです。親を大事にしなければならないとか。親教会を大事にしなければならないと言う様な事は教えていない。
宗教とは本芯の玉を研くこと。信心とは日々の改まりが第一であると言う事を、焦点にしてその研いていく方法であり、また改まっていく改まり方でありそれを、あらゆる角度から、神の叡智を持って示して下さる。合楽の場合はそこん所が違うと私は思うです。だから本当の意味においての宗教。いうならば宗教の中の宗教だと、私は自負してます。神様が示して下さる。
例えば今日私が頂いておる、先ず信心を頂いていこう、わが心が神に向こうていく生き方にならせて頂こうと言う、その基本になるものは、先ず自分の足元の乱れに気付かせてもらって、きちっと下駄が脱ぎ揃えられてある。自分の心が何時もきちっとしておるという所に先ず焦点を置かなければならないと言う様な事を、神の叡智によって今日皆さんに聞いて頂いた訳です。
そこからわが心が一歩一歩神様へ向かって行くのであり、進んで行くと言う事にならなければならんのです。そこで皆さんの場合です。ほんなら私が安武先生に、甘木の信心を、先ず頂いてからというなら、甘木の信心とはどげな信心ですか。それは親を大事にすることであり、親教会を大事にする事だとこう。決してそれはうそではない。皆さんがです、合楽の信心とはと問われた時に、皆さんならどう答えられるだろうか。
私はそこん所を、はっきりしておきませんと、信心のその眼目と言う所がです、はっきりしておらんと、間違えてくると思うのです。ですからいかに親教会を大事にするとか、親先生を大事にすると言う様な事ではです。信なければおかげは無しという、信は育ってこないと言う事です。果して甘木の教会に、沢山の出社があるが親を大事にしておる。親教会を大事にされるというだけで、その御比礼が立っておるか。もし御比礼が立っておるとするならばです。
そこの先生はそれよりももっと自分自身を、愈々高める事。いうならば、本心の玉を研いて行く事。改まることに一生懸命になられて、わが心神に向かわれてそれがそうしなければおられないと言う事になった教会が、御比礼を頂いておるのであって、もしそこの所を抜きにして。ただ親を大事にしさえすれば良いとか、親教会を大事にすれば良いと言うよな事だけの教会ならば見てご覧なさい。
必ず堂々巡りの信心で一つも、信者も増えておらんいうならば、火の消えたような教会に違いないと、私は今申しました。いうならば氏子に信なければ火が灯らぬ。火が灯らないのです。教会側からもならんのです。光を求めてみんなはやってくるのですそうでしょう。その光が光り輝きするようになるから、遠方からまでもその光に縋って集まってくるのです。カンテラにどんなに油がいっぱいであってもです。その芯がなからなければ、火は灯らんのです。その芯とは光が伴うほどしの信心だと言う事です。
親教会親先生を大事にしたっちゃ芯は灯りませんし、いや、光は伴いませんもん。矢張り自分自身の心が研きいだされてこそ、初めて芯がある。そういう信心の徳というものが、カンテラの中に油がいっぱいあるようにあってもです。神様がおかげを頂かせたいという思いが、一杯皆さんの上にも、働きがあっておってもです。芯がなければ火は灯らんのです。肝心要の所に芯がおかれなければいけんのです。しかもです火が灯らねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なりとまである。
ここん所がですいかに合楽で、合楽示現活動に参画させて貰うという信心が、叫ばれておりましてもです。その芯なければ光は灯らんのです。光が灯らなければ光の輪を広げていこうと言う様な事は、及びも付かない事です。先ずは銘々がです心に光を頂かなければいけん。その光が集まってその光を愈々光輪の世界というか、光の輪の世界を広げていくという世界が、闇ではない光の世界にしていかなければならないという、神様の大理想に向かって進んでいく事も、また出来ると言う事になるのです。
おかげを頂いても光は出ません。信心を頂かなければ光は出ません。芯なければ世は闇なりです。昨日はマルショウの育成会の方達の、役員の方達の集いですから、お話をしてくれというから、どういう話をさせて頂こうかと思ったら、教育と言う事を頂いた。だから、教育するという事はね、教えるという事だけではないのです。教えて育てていかなければいけないです。だから今の学校の教育方針なんかというものは、教育でなく只教えているだけで、育と言う事になってない育ててない。
そう言う事が言えるですね。先生方はいろんな知識を、生徒よりも余計に持っておるから、その知識を教えるだけ教え込むだけ育てていない。例えば金光様の先生でもそうです。お話の上手な所の先生では、教えは沢山皆さんが、言われますけれども。教えを聞いただけでは信者が一つも育っておらん。もうあちらの先生のお話を聞いたら、それこそ泣かせたり笑わせたりして、それこそ落語を聴くよりか面白う、可笑しゅう又は悲しゅうお話の出来られる方があります。
もう一時間でも二時間でも、お話が上手なんです。所が信者がーつも育ってないとするならば、それはただ教えておられるだけです。育てておられないと言う事になるのです。だから育てると言う事は、勿論信心でいうならば、先生が育てるのじゃない。神様が育てなさるのですけれども。先ずは先生自身が育たなければならないと言う事です。育てると言う事は、自分自身が育つと言う事なんです。親と子とが一緒に育っていかなければならない。それを子供に教えるだけで、子供に育て育てと言うても育たん。
信者にどんな良い話をして聞かせても信者が育たん。それは先生自身が行き詰っておるからです。先生自身が、一つも育っていないからと言う事になるのです。家庭のいうなら子供たちに、信心教育をするでもそうだ。私は合楽で一番有難い、素晴らしい事は、マルショウの場合でもです。もうマルショウの子供達自体が、信心になっていっておるという事です。これは珍しいです。もうマルショウの幹部の方たちなんかは、本当に大人がびっくりするような信心を、それぞれ身に付けて行っております。
これは本当に素晴らしいことだ。それを結局お母さんやら、お父さん方の信心が育って行きよるから、子供が育って行きよるんだという風に、私は申しましたがです。子供に分かってもらわんならん、誰にも分かってもらわんならんという、その思いが切であればあるほどです。自分自身が先ずは育たなければいけないです。そして教えるそして育つ。それが本当の教育だと言う事です。だから今の学校の教育なんかは、あれは教育じゃないです。ただ教です先生方が育ってないもん。
教育と言う事は教え育てると言う事です。ほんなら話をして教えただけ、教えただけで育つもんじゃない。育つ事は先生自身が先ず育たなければ、信者も育たんいうならば、生徒も育たないと言う事になります。皆さんが有難い信心を頂いて、これを子供にも孫にもと思うなら、先ずお爺さんなりお父さんなり、お母さんなりがです。愈々信心を進めていかにゃ出来ん。ただ信心しとりますと言うただけじゃいかんのです。そこでほんなら親教会ば大事さえすりゃ良いとか。
親先生ば大事にしさえすれば良いとかと言うだけでは、おかげは受けても信心は育ちません。信心が育つと言う事はどこまでも本心の玉を研くと言う事であり。日々の改まりが第一ちと言う事に着眼して、しかも御道の信心の、眼目である所の天地書附、生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあるという、その和賀心いわゆる愈々、和らぎ喜ぶ心を育てていくと言う事なんです。
その和らぎ喜ぶ心を育てようと言うても、ただ一生懸命参った、拝んだだけでは育たん。どんなにおかげを頂いても育たん。やはり本心の玉を研く事に改まっていくと言う事に徹するのであります。その生き方を身につけていく限り、和賀心は愈々育っていくのであり、その和賀心におかげが頂けれる。その和賀心にです。親教会は大事にしなければおられない。親先生は大事にしなければおられないという時に、愈々本当な事に成って来るというふうに思います。
だから焦点眼目というものを、間違えたり解らなかっておったんでは、信心せよ信心とは、和賀心が神に向かうと言う事にはなりません。幾ら参っても幾ら親教会を大事にしても、それでは和賀心は神に向かっては行きません。信心とはわが心が神に向こうて行く事を信心というのじゃと教えられるのですから。そこに、焦点を置く。そのわが心が神に向こうていく、手段というか方法というものをです。
合楽ではです。勿論日々の改まりと言う事と同時にです、本心の玉を研いてその事を持って改まりその事を持って研いていく。それを合楽ふうに言うと、成り行きを大切にする。実を言うたら大切に出来ない事もある。嫌な事もある。けれどもその嫌な事出来ないと言う所をです。修行と思うてそれを愈々受けていく事によると、それが豊かな心でそれが平気でいや平気だけではない有難く。
御の字を付けて頂く事の出来るようなおかげが受けられる。愈々わが心が神に向こうて行っておるそれが姿なんです。受けられないそれは自分の心の貧しさ、自分の心の汚さが受けられんのであり、困ったであり難儀を感ずるのですから愈々、限りなく美しゅうならせてもらう。豊かにならせて頂く事をです。焦点として信心を進めていかなければ、わが心が神に向こうていっておる信心とは言えんのです。
どうぞ。